高校生頃、夏の補習授業のテキストに、大岡昇平の『野火』がありました。文章が印象に残って、あとで読んでみました。一文一文を丁寧に読んで、書かれている情景を想像して、印象が出来上がってから読み進むような感じで、ゆっくりと読んでみました。何を良いと思ったのか、よく分かりませんが、一年ほど間をおいて大学に進んでから、『俘虜記』や『少年』、『幼年』といった所も読みました。このあたりが読書の始まりです。
(野火を読み返してみました。独特の描写のせいなのか,物語に引き込まれます。本を閉じると息をつぐ感じがします。他の現実があるように感じます。記憶していなかったのですが,後半,ずっとある「視線」に関して,話が展開していた。)
これも高校の模試か何かのときでしたが、坂口安吾の『桜の森の満開の下』が問題に使われていて、これを読んだときに感動してしまって、模試中なのにかなりの高揚感でした。しかしこれは手に入らず、全文を読んだのは大学の図書館で借りたときでした。後で講談社から文庫で出ましたが、その頃は売られていなかったと思います。この写真のところが問題文に使われていました。
もう一つ、これも高校の現国の授業で使用した問題集に、夏目漱石の『明暗』が載っていて、しつこい描写が気に入ったのか、大学に入ってから読んでみました。夏目漱石は『我が輩は猫である』をいまだ読み通せません。途中で挫折しています。大学の授業で、漱石の講義を受けました。そこで『夢十夜』がとりあげられていました。他に『抗夫』なども取り上げていて、自分でも色々と小品を読むことになりました。
大学の講義で、おもしろいと思ったものは国文学の講義ぐらいでした。先の夏目漱石のの講義の他にも、芥川龍之介の講義があって、これも非常におもしろかった。それで、芥川龍之介は新潮社の文庫を色々と読むことになりました。
この頃は、動機というものを理解したくて、このような小説を読んでいたように感じます。『明暗』はその最たるものでしょうか。でもいまは、人の行動の底にエゴイズムがあると考えることに、それほどの意味があるとは思えない。小説はそういった分かりやすさからはみ出している気がします。それを読む我々も同じだと思います。
『明暗』を、読み返してみました。新潮文庫から、百七十一段の文章を書き写します。
靄(もや)とも夜の色とも片付かないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞(せきばく)たる夢であった。自分の四辺にちらちらする弱い電燈の光と、その光の届かない先に横たわる大きな闇の姿を見較べたときの津田には慥(たし)かに夢という感じが起った。
「おれは今この夢みたようなものの続きを辿(たど)ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもう既にこの夢のようなものに祟(たた)られているのだ。そうして今丁度その夢を追懸ようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条(ひとすじ)の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。従って夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見であると云わなければなるまい。―――以下、続く
丁度、話が展開していくところですが、目が覚める文章です。そういえば『行人』にも、鮮烈な文章がありました。