メモ1

27 3月

自然言語を取り扱う上で、思いついたことの記録

ある文章が、意味をなしているのか、あるいは文法的には正しくとも、意味をなさないものであるのか、その判断をするときに、巨大なコーパス(言葉の海)を参照するのではなく、人が本来行っていることを考えてみたい。

意識が必要なものであったと考える

意識が生じた原因として,それが必要であったと考える事ができる。必要であったとは役に立ったという意味でよい。その上で,意識が何を行っているのか,それが在ることでどのように有利な状況を作り出すのかを考える。
意識の機能として,自己の確立というのがある。時間を経てもなお繋がっていく自分自身が在るという感覚。外部を観測する自己,外界から作用を受ける自己。自己の連続性は意識のもつ機能ではないか。

抽象とは

人の情報処理とは抽象と呼ぶような処理を積み上げていくものではないかと考える。その場合の抽象とは記憶の事ではないだろうか。

抽象

音を聞いて,言葉と認識することは抽象と言える。物体を見て,その名を思い浮かべるのも抽象と言える。

音声の記憶

神経細胞のような構造に、どのようにすれば音声が記憶できるのか。時系列の信号として記憶されるのか。可能な方法とは?

最初の知性

知性と呼べるような最初のステップは何だったのか?単純なものであると予想され、可能なことは少ないように感じる。二つの信号が同時に来ること等、限られた状況のなかでとられる、(限られた)手段とは何か。

アフォーダンス

文章が意味をなすと考えられる状況を、言い換える。

「箱の中にみかんがある。」

箱は、何か中に置くことができるもので、それ故に上記の文章は意味をなす。

「みかんの中に箱がある。」

みかんは、中に何かを容れる機能はない。それ故上記の文章は一般的には意味をなさない。箱が有する「中に何かを容れる」機能を、「中に何かを容れることを可能とする」と考えると、アフォーダンスとつながる。それぞれの名詞がもつアフォーダンスに矛盾しないように文章が構成されているときに、その文章は意味をなすと考えられる。

意識

意識とは、記憶のことではないだろうか。神経細胞が伝達するだけでなく、信号を記憶することを始めたときに、その記憶の塊が意識となったのではないか。脳は記憶を保持し続ける。その限りにおいて意識も存続する。

ただし、このように考えることに何か意味があるかどうか不明。

しかし,考えてみると自分が誰だか分からないという意識の状態がある。そうすると記憶から切り離された意識の在り方も考えるべき。

何故右半球が左を制御するのか

何故,右半球が左を制御するのか。どうして遠いところで制御するのだろう。